消費税の錯覚



ヨーロッパよりもまし?
消費税は、小泉首相が退陣したら、程なくして10%に上がるだろう。

そのときにおそらく
「ヨーロッパでは15%〜20%くらいの国もけっこうあるのだから
10%でも辛抱しないと……」
なんていうコメントが、
政府の息のかかったエコノミストが言うと思うが、
ダマされてはいけない。

 消費税が多いか少ないかを論じるには、
他の税金のことや
高福祉高負担の国であるべきなのかどうか
ということを考えないといけない。

今後、政府の支出の無駄を徹底的に減らさないと、
このままでは日本は、低福祉高負担の国になる恐れが多分にある。

それでたとえば、消費税が10%になったら、
消費税がない場合よりも10%高い買い物
(物品やサービスに関して)
をすることになると思っている人が多いと思うが、
実はそれは「消費税」という名称に幻惑されたまったくの錯覚であり、
以下に述べるように、
それどころではない恐ろしく高い買い物をせざるを得ないことになるのである。


こんなに高くなってしまう!
 消費税は、
名称は「消費」税であっても、
実際には消費者と関係のない取引においても徴集されるのだから、
取引高税と呼ぶべきものであり、
付加価値税であり、外形標準課税でもある。

 あるモデルを設定してみよう。
 素材メーカーが粗利率を売価の30%とって
100円で完成品メーカーに対して出荷した素材を、
商品に仕上げた完成品メーカーが卸商社に300円で売るとする。
(その場合の完成品メーカーの粗利率は66.7%)

 それを卸商社が小売店に400円で売るとする。
(卸商社の粗利率は25%)
それを小売店が600円でユーザーに売るとする。
(小売店の粗利率は33.3%)

この例では、
素材メーカーから100円で出荷された素材を
ユーザーは600円で買うことになる。

 次にこれを取引の各段階で、
それぞれの段階での粗利率は同じでありながら、
粗利益に対して10%の消費税を乗せて
川上から川下に商品が売られていくとしてみよう。

 まず、素材メーカーは、
粗利率の1割に相当する「売価の3%」を乗せて完成品メーカーに売るのだから、
103円で完成品メーカーはその素材を買うことになる。

 それで、
完成品メーカーは卸商社に対していくらで売るのかということになると、
その売価の(66.7+6.7)%を粗利益として得なければいけないから、

103÷(100−73.4)≒387

となって、およそ387円で卸商社が買うことになる。

 それをまた卸は、粗利益率を自社の売価の25%でなく、
それに消費税を乗せた27.5%でもって、小売店に販売するのだから、
小売店は534円で買うことになる。

それを小売店は30%ではなく33%の粗利率で売ることになるのだから、
小売価格は797円になる。

 すると、結局、消費税がなければ600円で買えた商品を、
10%の消費税がかかったばっかりに、
ユーザーはそれを800円もの高額で買うことになるのである。

 ただし、あくまでもこれはモデルであって
、実際には、流通がもっと単純化されていたり、
流通の各段階での企業努力で消費税を吸収したりすることもあるかも知れないので、
常にこうなるというわけではない。

 しかし、10%の消費税というものは、最終的なユーザーの購買価格が、
消費税がない場合に比べて決して10%アップですむのではないということは、
明白であり確実なことであるということをご理解いただきたいと思う。
なお、消費税は上がっても、
競争などの理由でそれを流通のある段階、
あるいは各段階で購買者に転嫁できないということがあれば、
それは企業の収益力を弱らせることになるのである。

 重い税は国民を苦しめ、経済活動を萎縮させる。
 経済学の大家であるヒュームは「重税こそ諸悪の根元」と喝破している。

 もしも、消費税を10%にするのなら、
所得税も法人税もゼロにすべきであるということを、
竹内靖雄教授が『衰亡の経済学』(PHP研究所2002)で言っているが、
その詳細は同書で読んでいただきたい。

また、ブキャナンは、

民主主義の政治だと政府が支出を膨らませて赤字国家に陥る傾向を持っている

と指摘したが、それは結局、
多くの国民が国家に対する支出(税金)以上の見返り(公共サービスなど)を要求するからである。
そういうツケは結局は自分に回ってくるのであることを知れば、
無理な要求はしないですむと思うのだが。

今のところ、このコーナーはこのページで終わりです。


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